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12.私たちの救いはもうすぐ来られます!
私たちが神に近づけば近づくほど、また神の愛を感じれば感じるほど、自分の弱さ、欠点、うぬぼれた心がより浮き彫りになります。しかし、これらの弱点は私たちにとって言い訳にはならず、終わりの日に見逃されることもありません。私たちの過ちこそが、私たちの性格が本当に変わるまで、ますます祈り、信仰においてより強くなれるよう求めるようにと駆り立ててくれる原動力となるでしょう。聖霊は次のみ言葉の意味を私たちに教えてくれるでしょう。
わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである
Ⅱコリント 12:9
今私たちは、主イエス・キリストが再び来られるのを待っています。その時にキリストは、救いの全容を明らかにしてくださるでしょう。キリストの輝かしい姿は私たちの希望の先にあるものです。主イエスを慕い求める信仰者は皆、間もなく来られる主を期待し待っています。
ある靴屋が自分の工房に座って靴を修理していたとき、一人のクリスチャンの友人が通りかかり、彼に尋ねました。「最近どうだい?ところでそこで何してるんだい?」靴屋は「キリストが来られるのを待っているよ。傍ら、靴の修理もしてるけどね。」と答えました。自分の仕事をしていて、主イエスが来られるのも待っていると言ったのではありません。信仰に依り頼む者は、できるだけ早く救い主にお会いしたいと思っています。この希望は彼らの人生の主題となっています。
イエスは栄光のうちに来られるとき、永遠の命が、いかに満ち足りたものであるかを明らかにされます。イエスを信じた弟子たちはすでにこれを体験していました。救いによって私たちは主イエス・キリストの命の一部となったので、私たちは死ぬのではなく生きることになるのです。私たちの信仰が導く目的地は、暗闇や、震えるような恐ろしい空間ではありません。キリストを信じる者が主と共に永遠にいる日が来ると、私たちは確信しています。私たちの心に注がれるイエスの愛は決して消えることがありません。主の救いは一時的なものではなく、永遠です。罪、死、誘惑に打ち勝つ神の力が私たちの内に現れています。
私たちの肉体は死を避けられませんが、イエスが来られるとき変化が起こります。主の栄光を身に着けることで自分たちの弱さは覆われ、主にあって新しく完全になるでしょう。キリストに従う者は皆、喜びをもってキリストに一つとなるでしょう。食べること、飲むこと、結婚すること自体が私たちの希望なのではありません。神に直接会い、永遠に神とともに生きるという期待があります。神が新たな創造物を示されるとき、私たちは神の恵みの中に多くの不思議を見るでしょう。
高慢なままでいたために、イエスと、イエスが用意してくださった救いを受け入れなかった人たちは皆、恐怖のあまり泣き叫び、嘆くでしょう。罪がはっきりとなり、彼らは自らの罰を受けなければなりません。私たちが彼らより優れているというのではありません。しかし私たちが自らの罪を告白し、身代わりとなられた主イエスの死を受け入れたとき、私たちの内で神の裁きが完了しました。イエスは世の罪を自らその身に負い、私たちの罰を完全に受けてくださいました。ですから私たちは、神の恵みによって義とされ、裁きの日から解放されます。キリストに心から従う人は誰も、これ以上非難されることがありません。
終わりの日、私たちは大群衆が口元に賛美歌を歌いながら主に近づき、救い主が十字架であがなってくださった御業に感謝するのを見るでしょう。彼らは、神の再臨の誓約と保証として、自分たちの内に聖霊を送ってくださった主を賛美するでしょう。しかし、他の人たちは・・・
丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。
ルカの福音書 23:30
彼らを裁かれる主の栄光はあまりに重く、彼らのうち誰一人としてそれに耐えることができません。彼ら自身の悪い行いは神の光の中ではっきりとされ、彼らが善しとして取った行動は汚いぼろ布のように映るでしょう。神の救いが用意されていたのに、それを無視し、拒否したのです。唯一の救い主を軽蔑したため、永遠の滅びに陥ることになるのです。彼らの後悔は決して終わることがないでしょう。救われた者にとって最高の喜びの日は、十字架につけられた神の御子を拒絶した者たちにとっては、苦しく恐ろしい裁きの日となります。彼らは救いを受け入れなかったので、この聖書の言葉をその身に体験することになるのです。
恐ろしいことです。
へブル 10:31